はじめての家族側からとしての「看取り」
代表である私の父(78歳)が2021年1月3日0時21分に他界しました。
初めて経験した家族側からの目線としての「看取り」をお伝えしたいと思います。
2019年12月に食意低下・嘔吐により入院
その時の診断は「急性膵炎疑い」
10日以上の食止めと点滴処置
その後の検査にて「スキルス胃癌STⅣ」+「腹膜播種」=癌末期 手術・抗癌剤適用外との事でした。
その時の余期宣告は3ヶ月で、次の桜は見ることは難しいだろうと。
直ぐにがんセンターへ転院手続きを行い、年明け早々に転院し少しでも食べれるようにと対処療法としての抗癌剤を開始。
食意も戻り、CVポートを設置してもらったので通院での抗癌剤点滴が可能となり、
余期宣告の3か月後には 介護申請→福祉用具・訪問診療・訪問看護をお願いして退院。
退院早々煎餅を口にほおばっておりました!(笑)写真右→
何より桜の開花時に自分の足で歩いて観ることができました!
←写真左
食事も普通食(天ぷら・鰻まで食べれました)で問題なく、宣告から10ヶ月は自分のペースで身辺整理をしながら過ごしておりました。
10月になり、ふらつき・認知機能低下にて精査→脳転移・癌性髄膜炎にて髄圧調整の為のシャント(チューブ)を設置するための手術を行いました。
11月に退院出来ましたが、それからは一転してADL(身体能力機能)が低下していき、寝たきりの生活。
12月には食意低下が著しくなり、意識レベルも徐々に低下。
20日頃からは殆ど昏睡状態(OS-1少量のみ)。
25日頃からは水分摂取も不可能となり、生前より補水の為の点滴もしないと話しており、年越しは無理と思っておりました。
それからは、必要時に吸引できるよう私は常に隣。
子供・孫が来る連絡を受ける度に「もうすぐ○○が来るからね」と声をかけ、痰で呼吸が苦しくなると吸引の繰り返し。
気が付けば年を越し、痰も引けないほどカラカラの状態となっておりました。
血圧も下がり始め、努力呼吸→下顎呼吸→呼吸回数の低下→1月3日0時21分に呼吸停止→訪問医に連絡→0時56分死亡確認
皆が「今までありがとう」と言った瞬間、最後のひと呼吸と同時にしっかりと頷き、半開きだった瞼を自ら閉じて人生の幕を閉じました…
年明けから全く声掛けにも反応を示さなかった父が最後の最後に声掛けに反応してくれたということは、やはり反応が無くても耳は最期まで聞こえている!
今までは、文献の中だけで知り得た知識で「声は聞こえていると言われてますから、話しておきたいことを話しかけてあげてくださいね」と伝えておりました…
事実、本当に最期まで声は届いているのだと実感いたしました。
そして、家族皆で行った「エンゼルケア」
とても穏やかで、今にも話し出しそうなしそうな顔でした。
今まで、多くのご利用者様の「最期の旅立ち」に関わらせていただきました。
後日お話を聞かせていただくと「最期に家で過ごさせることが出来てとても良かった」と言って頂いております。
私も、悲しみ・寂しさは勿論ありますが、最期まで自宅で過ごされることが出来て全員でできたという事により、残された家族に「あの時、○○してあげておけばよかった…」等の心残りはほとんどありませんでした。
私が感じられた家族側からの目線です。
今後もこの経験を活かし、これから訪れるであろう「最期の旅立ち」を、少しでも「最高の旅立ち」と思えるように
ご利用者様、そのご家族様に寄り添っていければと思います。
お父さん、今までありがとう。
あなたの子供として生まれてこれて本当に良かった。